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寄り添う日

聖書「一緒に行った者たちは民の心をくじきましたが、わたしはわたしの神、主に従いました。」(ヨシュア記14:8)

 「人の心を読める」とは違って、私は小さい頃、自分の足らなさを補うために、出来るだけ「年上の人」の話を聞くこと、その人達と遊ぶのが好きでした。その続きといえるでしょうが、「人の考えを知りたい為」に、ついつい先輩たちと交わってきていました。

 こんな経験があります。もう何十年も前、牧師を目指して西南学院の文学部で学び、西南学院教会に属していました。その頃、牧師の訪問や、家庭集会へ連れて行ってもらいました。バスや電車での牧師との会話が嬉しかったのでした。

 そんなある日、電車でご一緒した時、勿論、私が質問でもすれば、返事は帰ってくるのですが、「今日は先生がどんな話をしてくださるか」期待して、隣の席に座っていました。しかし、何十分も会話がなかったのです。そこで私が、「今日先生は話をしてくださいませんね」と正直に質問しました。

 すると先生が「勿論質問があれば返答はしますよ」でも今は、「人(私)の考えを乱さないために、話は控えていた」とおっしゃいました。なるほど、先生は私に対しても配慮されていたのだ、とこのような「間」の取り方もあるのだと考えさせられ、相手のことを思って下さっていたことに、感動でもありました。

 何かの本で読んだことがありますが、アメリカのある学校では、「シャドーイング・デー」(影のように寄り添う日)というのがあるそうです。実際の在り方は、その日、生徒たちが、興味のある職業の人に、「影」のように?つきまとって一日を過ごすのです。そして、自分が何を発見したかをレポートするのです。

 シャドーされる人にとっても、自分を新しくする一日になるかもしれないのです。そこで思うのですが、イエス・キリストにシャドーする人は、何を発見するのでしょうか。私たちにはここが問題です。

池田
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意味を探す

聖書「同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。≪世には色々な種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません≫。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 14・9~10)

 こんな経験をしたことはありませんか?人の話を聞く場合、聞く人の事情、体調や、大切な課題等持っている時、関心がない場合でも、耳には聞こえるのですが、話の内容を考えることがつらいこともあります。でも、自分の事情ばかりを、何度も話される時等、正直聞きたくない場合もあります。

 でも、人と親しくなりたければ、くだらない話を思い聞くことができるようになることです。いわゆる「くだらない話」とは、意味のない話のことですが。

 でも、意味があるかないかは、話の内容だけで決められるものではありません。人は「何らかの理由」があって、その「話」をするのです。それを考えると、どんな会話も面白いものです。話をするその人自身の存在あの面白さです。
だから、具体的に話の内容を、質問したり、確かめることが大切でしょう。

池田

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心の虫について

聖書「わたしの魂よ、再び安らうがよい、主はお前に報いてくだる。あなたはわたしの魂を死から≪わたしの目を涙からわたしの足を突き落そうとする者から、助け出してくださる≫。」(詩編 116;7~8)

 わたしたちの世界で、時折気に入らない出来事があったり、進行をしているのに、なかなか実現しない時、悪い意味でつかわれる、例えば「腹の虫」とか「虫が騒ぐ」、主に悪いことについていう潜在意識を言ったり、あまり良い意味では使わないことが多いと思います。 
 
 さて、人心には、一匹の虫が住んでいるといいます。この虫は「居所が悪い」と、嫌いとか、うっとうしいとか、いちいちうるさく騒ぐのです。一旦、この虫が「好かない」と思い込むと、もう何もかもが気にくわなくなるのです。

 わがままな虫ですが、少しでもその予感がすると、前もって「知らせ」てくれる律儀なところがあります。昔の人は、この「虫」を何とか「殺そう」としたようですが私は可愛がってやりたいと思っています。

池田

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屋根で覆う

聖書「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。≪すべてを忍び、全てを信じ、すべてを望み、すべてに耐える≫。」(コリントの信徒への手紙13;4~7)

 今日も≪ ≫印を中心に考えるのですが、有名な聖句ですし、内容的にすべてが関連しています。短い文章で「愛」について記されていますので、個々のことばの全体を読んでいただきたくために、4節から記しました。聖書学者たちは、この13章は短いのですが「愛の章」というテーマで書かれています。

 さて、この中に「すべてに耐える」は、簡単に『我慢する』と言えるとも思います。しかし、少しだけ注意して読んでいただきたいのは、「すべてを耐える」の前に『すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み』があり、ここは考えておくべきところです。

 さて、普段着的に言えば「すべてを耐える」とは「愛はがまん」という意味でしょう。「がまん」は言語のギリシャ語で「ステゲイン」でして、「屋根でおおう」という意味です。即ち屋根のようにおおうとなって、上から降ってくるものを、代わりに受け止めるのが「がまん」でしょう。

 ある時期、親は子どもの「ステゲイン」として、つらい状況を「がまん」しなければなりません。子どもの大屋根として風雪に耐えることを、聖書は「愛」と呼ぶのです。子どもは「ステゲイン」のもとで巣立つのですね。

池田

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「深み」と「上面」

聖書「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに
『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥じをさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず、あざけられているのに気づかない。」(エレミヤ書6;13~15a)

 聖書の言葉を少々長く書いてみました。ある人たちは、この聖書の箇所を読んだだけで、これについての説明はいらない様にも思います。しかし、それでも、あえて私の思いを書いてみたいと思います。すみません!!

 最近は、情報伝達が速く、どんなに隠しても、すぐ明らかになります。いつの時代にも、深い傷を負った人に、いかがわしいような(適当な)薬を塗って済ませようとする「ヤブ医者」はいるようです。

 彼らはどんな病も「手軽に」いやします。「手軽にいやす」は「上面だけで」という意味です。カウンセリングの場面では、「深み」だけでなく「上面」も大切です。「深み」か「上面」か、どちらか一方しか見ようとしないことは注意しなければと思います。互いに注意しないと、時々そこにはまります。

池田
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Author:bonsada
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